耳が聴こえないハンデがある、ひとりの男性。
デザイナーとして、出来る限り前向きに生きる道を選びました。
10月。静岡県藤枝市で行われたセレモニー。
北村正平 藤枝市市長:
「表彰状 最優秀賞 高田研吾様、あなたは藤枝市政施行70周年サッカーのまち100周年ロゴマークに応募され頭書の成績を収めました」
松山市在住のデザイナー、高田研吾(47)。
記念ロゴマークのデザインコンテストに応募した高田の作品は、全国から集まった49点の中から見事最優秀に選ばれた。
シンプルでスタイリッシュな、高田のデザイン。縦にも横にも使い易い点が、評価のポイントだった。
高田さん:
「藤枝市のことを想い、よき発展に繋がれば良いということを真心を込めまして作りました。」
障がいのあるなしに関わらない公募で選ばれたことが、誇らしい。
難聴を抱えながら ものづくりが好きだった幼少期
現在はフリーランスで活動する高田。パソコンさえあればどこでも仕事が出来る、ノマドワーカーだ。
こちらのカフェもお気に入りの仕事場。
耳には、補聴器。
生まれつきの難聴だ。
小学生の頃はサッカー好きでキャプテン翼のファンだったという高田。
松山市社会福祉協議会の協力で、受賞の感想を聞いた。
高田さん:
「自分の限界を持たずにこういうことが出来る。ハンデを超えることが出来る勇気になりましたし勇気をもらいました。」
これまでに、企業や自治体のロゴマークなど、数多くのデザインを手掛けてきた高田。
高田さん:
「小さいときは絵を描くのが得意だったんですね。絵だけじゃなくて、ものを造ることも好きでした」
現在、高田は松山市の実家で両親と暮らしている。耳が聴こえていないと分かったのは2歳半のときだった。
母・功子さん:
「2歳になっても言葉が出ないから不安になって(病院で)聞こえていませんと言われたんです。ちょっと一瞬真っ白になったんですけど、とにかく経験をさそうということで」
この子にはまだ手も足も目もある。前を向いて、人生を歩くことが出来る。
3歳から9歳頃まで高田が使っていた大きな補聴器。
母は捨てられずに大切にしまっている。
両親が色んな体験を与えたことで、高田は感受性豊かに育った。
自分のスキルがどこまで通用するのか挑戦を続けてきた
一度は会社勤めもした高田。笑顔が印象的だが、辛い思いをしたこともあったという。
高田さん:
「障がいに対して理解をしてもらえないということがあったので、やっぱり悔しい部分もありました。たくさんありました。ですが、無理せずに自分のスキルが社会に通用するかということでデザインに挑戦してきました」
耳が聴こえなくても、うつむくことなく生きてきた高田のモットーは…
高田さん:
「とにかく過去には捉われずに前向きでいることというのを心がけています。」
聴こえなくとも人生を諦めず、ひたすら前を向いて生きる。
〝自分はどこまで行けるのか”高田の挑戦は続く。
リンク先は南海放送というサイトの記事になります。