【デフリンピック】デフバレー日本代表は難聴の耳鼻咽喉科医 「当事者だからこそ患者に寄り添える」

【デフリンピック】デフバレー日本代表は難聴の耳鼻咽喉科医 「当事者だからこそ患者に寄り添える」

耳が聞こえないアスリートのためのオリンピック、「デフリンピック」。

100周年を迎える2025年大会(2025年11月15日~26日)は初の東京開催となる。

その競技種目の一つ、デフバレーボールの男子日本代表キャプテン(17年、21年大会)の狩野拓也さんは、愛媛大学医学部附属病院に勤務する耳鼻咽喉科医だ。

医学部生時代は難聴をカバーしやすい、「目」で仕事をおこなう放射線科医になろうと考えていた狩野さんだが、デフバレーを通じた出会いがきっかけで耳鼻咽喉科医の道に進むことに決めたという。

狩野医師のインタビューを現在発売中の週刊朝日ムック『医学部に入る2024』からお届けする。

生まれたときから両耳ともに音がほとんど聞きとれない。

重度の難聴だった狩野拓也医師は、幼少期から補聴器を装用して日常生活を送ってきた聴覚障害当事者だ。

2020年、耳鼻咽喉科の研究の一環として、補聴器をつけた状態で初めてことばの聞き取りの検査を受けた。その結果、1~3割しか聞こえていないことがわかったという。

「静かな環境下で3割、騒音下では1割しか聞こえていなかった。もっと自分では聞きとれていると思っていたのでショックでした。人工内耳手術を決意しました」

手術によって、左耳に人工内耳を埋め込んだ。

右耳には補聴器を装用し、聞き取り能力は9割まで改善。

さまざまな音が聞こえるようになったという。

「歯を磨く音やエアコンの音が初めて聞こえて感動しました」

大工職人を救った補聴器 早めの補聴器装用を呼びかけ
日本では、補聴器装用や人工内耳手術の割合が欧米に比べて圧倒的に低い。

まだまだ働ける世代が難聴を理由に仕事を辞めるケースもある。

高齢者の場合、難聴で人とのコミュニケーションがうまくとれないと外出が減り、足腰が弱ったり、孤独感からうつ病を発症したりと、心身に及ぼす影響が大きい。

狩野医師は早めの補聴器装用を訴える。

人工内耳も補聴器も装用してすぐに言葉が聞こえるようになるわけではない。

一定期間の聴覚リハビリが必要だ。

以前、70代男性が「耳が遠くなって、若い人との会話が難しくなってきた」と受診してきた。

大工の棟梁だった。

加齢性の難聴だったため、補聴器装用を勧め、数カ月の補聴器による聴覚リハビリ期間を経て、男性は聞こえを取り戻した。

「その男性から、『仕事を引退しようかと思っていたが、補聴器を装用してから仲間とのコミュニケーションもうまくいくようになり、もう少し仕事を続けることにしました』とうれしそうに報告していただいた。日本全国にはこのように難聴を理由に仕事を辞める人が多いのではないかと実感しました」

耳鼻咽喉科の診療領域には聴覚以外にも非常に幅広い領域が含まれる。

頭頸部がん、音声障害、嚥下障害のほか、睡眠時無呼吸症候群やアレルギー性鼻炎、副鼻腔炎も治療領域だ。

「睡眠時無呼吸症候群になると睡眠の質が悪くなり、アレルギー性鼻炎でも、鼻が詰まると勉強や仕事に集中できなくなる。

これらが治療できれば、仕事や勉強もはかどるようになる。耳鼻咽喉科医が患者さんの人生の価値に大きく寄与できる部分です」

中学時代は、次のテストの出題範囲など、教師の言葉がよく聞き取れなかったとき、それを友達に教えてもらうかわりに、友達に勉強を教えていた。

もちつもたれつの関係に心地よさを覚え、将来も人を助ける職業に就きたいと、漠然と教師になろうと思っていた。

医師を目指そうと思ったのは中3のとき。

体育の走り高跳びで転倒、右ひじを骨折した。

病院で手術を受け入院。

退院時、世話になった主治医の先生と看護師さんに「退院おめでとう」と言われたときだった。

「医師になりたい」という得も言われぬ気持ちが湧いた。

もともと勉強は苦ではなかった。医学部に現役合格し、医師の道を歩み始めた。

デフバレー日本代表として知名度向上にも寄与
狩野医師には「デフリンピック・バレーボール男子日本代表キャプテン」というもう一つの顔もある。

デフリンピックとは、4年に1度開催される耳の不自由なアスリートの国際競技大会だ。

中・高・大学とバレー部に所属し、ずっと健聴者と一緒にプレーしてきた。

高校ではレギュラーとして活躍。

デフバレーを知ったのは大学3年生のとき。

知人からデフバレー日本代表チームへの参加を打診されたのがきっかけだ。

デフバレーも健聴者のバレーとルールもネットの高さも全く同じ。

出場条件は両耳ともに55dB以上の難聴者であること。

試合中には補聴器や人工内耳を外すのがルールだ。

「難聴者には対話に手話を使う人、口話(こうわ)を使う人、筆談の人もいる。練習での話し合いでも、メンバーと意思疎通がすんなりできない。最初はそこが大変でした。私は普段、口話でやりとりしていますが、手話も学んでいたのでそれが役立だちました」

普段はそれぞれ仕事を持ち、全国にちらばるメンバーとの練習は月1回程度。

そうした状況でもチームは健闘し、17年トルコ大会は7位、21年ブラジル大会(22年開催)8位入賞。次は25年の日本初開催となる東京大会を目指す。

悩ましいのは、デフリンピックはオリンピックやパラリンピックに比べ、認知度が低いことだ。

「東京大会を契機にデフリンピックの認知度向上、補聴器や人工内耳も啓発していきたい」と意気込む。

デフバレーがくれた仲間 耳鼻咽喉科医への道
デフバレーとの出合いは、狩野医師にとって多くの転機ともなった。

“同世代の聴覚障害者”という貴重な仲間を得ることができた。

当事者同士の情報交換や医師として仲間の相談に乗ることもある。

数ある診療科のなかで耳鼻咽喉科医になることを決めたのも、デフバレーがきっかけだった。

研修医時代、病院に先天性難聴の子どもと両親が訪ねてきた。

医師・デフバレー選手として活躍する狩野医師をテレビで見て、会いにきたという。

「『難聴の子をもつ親として不安が多かったが、活躍する姿に勇気づけられました』とそのご両親に言われて。当時は、患者さんの診察などに『耳』を使う機会が少なく、画像診断を中心に『目』で仕事をおこなう放射線科医の道も考えていました。でも難聴の当事者だからこそ、患者に寄り添えるということに気づき、耳鼻咽喉科医になることを決めました」

障害をもつ当事者は、当事者にしかわからない世界を生きている。

当事者としての経験が耳鼻咽喉科医の仕事で役立っていると感じる。

「医師としての専門的な知識に加えて、当事者の立場から、補聴器の選び方や人工内耳のメリット・デメリットなどを伝えられます。説得力に厚みをもたせられるのは一つの強みかなと思います」

聴覚障害のために、子どもの頃から多くの人の世話になってきた。

その分、自分のできることで恩を返してきた。いまは耳鼻咽喉科医として“恩返し”を果たせている。

「人間はもちつもたれつだと思っています。障害がある人も、そこに引け目を感じるのでなく、パズルのピースのように、それぞれの長所と短所を埋め合っていけばいいだけかもしれません」

(文/石川美香子)

リンク先はAERAdot.というサイトの記事になります。
Back to blog

Leave a comment