2024.10.24 # 本
週刊現代講談社
月曜・金曜発売
プロフィール
芥川賞作家・小川洋子さんの最新作『耳に棲むもの』は、VRアニメの脚本の世界をさらに広げた短編集。補聴器のセールスマンと、巡る先々で出会った人との交流を描いている。作品に込めた思いを、著者である小川さんに伺った。
おがわ・ようこ/1962年、岡山県生まれ。1988年に「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞を受賞。1991年「妊娠カレンダー」で第104回芥川賞を受賞。おもな著作に『冷めない紅茶』『博士の愛した数式』『ブラフマンの埋葬』など
短編に共通する「モチーフ」
——『耳に棲むもの』は、小川洋子さんが原作を書き下ろした山村浩二監督のVRアニメ映画から、さらに物語を広げた作品集です。補聴器のセールスマンを中心人物とした、連作短編になっています。補聴器を利用している人ではなく、そのセールスマンが主人公という設定が面白いです。
最初にあったのは、耳の中に自分だけのために音楽を奏でてくれるカルテットと、それに合わせて踊るエビがいる少年という発想でした。思い込みかもしれないけれど、自分の内側にそういう友達を持っている少年がいて、そんな子が大人になった時に就く職業として、反射的にパッと思いついたのが補聴器のセールスマンだったんです。
セールスマンって、今はめっきり少なくなりましたよね。私が子供の頃は、学習教材などを売りにセールスマンが家を訪ねてきたりしたものです。子供心に、うさんくさいけれど神秘的な感じがして、どこか魅力的だったんですよ。あの神秘的なおじさんたちは今頃どうしているだろう?
という思いがあって、インターネットでなんでも手に入る効率的な時代に逆行するように、補聴器というもっとも肉体に触れるものをカバンに入れて、あちこち歩いて廻る人を描いてみたんです。
——補聴器や耳はもちろん、骨壺や繭、「耳たぶに触れる」に出てくるクッキー缶の中のダンゴムシの死骸、「踊りましょうよ」のボートの上の小屋など、小川さんの「閉じられた空間」への愛着を感じるものが、小説中にたくさん登場しますね。
体質的に、フタがあるものが好きなんです。食器でも、フタがついているだけで途端に心惹かれる傾向があって。たとえば船でも、屋形船みたいに屋根があると「あの中はどうなっているんだろう」と想像力が膨らむんです。狭い空間に閉じ込められているんだけど、そこにいる人、そのものにとってはその小さな空間が宇宙なんです。狭いけど、宇宙。それが矛盾なく成立しているのが物語的なんですよね。
——最初に収められた短編「骨壺のカルテット」は、セールスマンが亡くなった後日談で、そこから人生を遡るように物語が綴られていきます。生前親しかった耳鼻科の老院長が、セールスマンの骨壺から4つの小さな骨を取り出し、セールスマンの娘に語りかける。「骨壺」の発想はどこから生まれたのですか?
お姑さんが亡くなってお葬式を行ってからしばらく、仏壇に骨壺を置いておいたんですね。それに5歳の孫が興味を持って、「あの中には何がはいっているの?」と見たがるので、「ひいおばあちゃんの骨が入っているのよ」と教えるんですけど、うまく想像できないみたいで。
それで、納骨でお墓に埋める時に、孫にあらためてきちんと説明しようとしたら、今度は、何かを感じたようで怖がって近寄ってこない。墓に入れた瞬間にこの世とあの世が分かれちゃうんだと、理屈ではなく体感できる。
赤ん坊も、骨になっていろんな物質に分解されていた宇宙の物質が、また寄り集まってできたものなんだな……そんなことを考えましたね。
——「今日は小鳥の日」は、小鳥のかたちのブローチを蒐集する愛好会の二代目会長が、先代会長の最期についての不気味な思い出を、セールスマンに聞かせる話です。
小鳥が好きな人って、どこか残酷な一面を持っているんですよ。小さい鳥って、掌で簡単に握りつぶしてしまえる。つまり自分の手に生死がかかっている。「自分がこの生き物の生死を握っているんだ」と思うんでしょうね。だからでしょうか、政治家のような権力者には、小鳥好きが多いんです。そこから思いついたお話です。
——最後に収められた「選鉱場とラッパ」の舞台である、輪投げの景品のラッパに執着する孤独な少年が暮らす鉱山は、滅びが近い環境であり、「死」を連想させます。
おっしゃるとおり、町が死んでいく運命にあるということですよね。その中で、思春期に入る寸前の少年が、たぶん一生誰にも喋らない秘密を抱える瞬間、1日を書きたいなという思いから始まりました。
なぜ彼の宝物をラッパにしたのか。ラッパというのは、息を吹くことで、内面を吐き出せる。少年はすごく上手に法螺貝を吹くけれど、息を吐き出すという肉体運動によって、モヤモヤしているものを具体化できる。その象徴がラッパだったのかなと思います。
明確に思い描いていた「終わり方」
——読み終わった時に、少年の持つ孤独のむず痒さのようなものが、言葉ではなく感覚で心に響くような気がしました。
私のイメージとしては、最後に、誰でもいいのですが何者かがラッパを吹いて、セールスマンのカルテットたちと共演して、言葉で表現し難い音楽が流れる——それがエンドロールになるという、音楽的な終わり方をしたいと思っていました。小説の中ではラッパは鳴ってないんですけど、読者の耳の中では共演していて、読者だけが感じたものが音楽として鳴り響いてくれたらいいなと思いました。
やはり、読み終わった後に文字が頭に残ったのでは、あんまり読んでいて楽しくないですよね。小説を読み終わった時に、映像が浮かぶとか、音楽が聞こえてくるとか、風の感触を感じるとか、そういう言葉以外のものが記憶に残るような読書体験を自分もしたいし、そういう小説を書きたいと思っています。
(取材・文/伊藤達也)
「週刊現代」2024年10月26日・11月2日号より
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