父はアルコール依存で母は聴覚障害「ADHDの私に何ができる?」30代女性が月商100万円の焼きいも屋になるまでの苦悩

父はアルコール依存で母は聴覚障害「ADHDの私に何ができる?」30代女性が月商100万円の焼きいも屋になるまでの苦悩

両親が失職し、しかも病気を抱える身。自分もADHDを抱えながら、なんとかしてお金を稼ごうと考えた女性がいます。たどりついた先は、移動販売の焼きいも屋。そこまでの道のりを聞きます。

「両親の働くお弁当工場が倒産」私が働かないと…

── 焼きいも屋を始めて18年目の阿佐美やさん。以前はどのような仕事をされていたのでしょうか。

阿佐美やさん:19歳で両親の働くお弁当工場が倒産してから、家計を支えるためにアルバイトを転々としていました。父はアルコール依存症、母は聴覚障害があるので、私がふたりを支えなければいけませんでした。

ファミレスや工場での仕分けなどいろんなアルバイトをしました。焼きいも屋を始める直前は、社員食堂で調理師のパートをしていました。

── 企業に就職しようと思ったことはなかったのでしょうか?

阿佐美やさん:私はADHDで、小さいときから劣等感を抱いて生きてきました。人とコミニュケーションをとるのが苦手で、うっかりミスも多い。やるべきことをメモをしても、そのメモをなくしてしまう。とにかく昔から、周りの人が簡単にできることができませんでした。

フリーターになってからも、アルバイトに遅刻しないように頑張るだけで精一杯。長続きしないんです。社会人として働いていける自信を持てないまま、気づけば20代後半でした。

── 仕事として挑戦したいことはありませんでしたか。


阿佐美やさん:自分でカフェをやりたいと思っていました。昔からカフェ巡りが好きで、おいしいものを食べながら本を読んだり、ノートに未来の計画を書いたりするのが好きだったんです。

調理師のパートをやめたのは28歳のとき。人間関係やミスの多さに悩んだ末のことでした。そのあと失業保険をもらいながら、職業訓練校の「フードサービス科」で飲食店の経営について学び始めました。

古本屋で見つけた「1冊の本」が運命を切りひらく

── そこからどうやって、焼きいも屋として起業されたのでしょう。

阿佐美やさん:カフェをやりたいと思ってはいましたが、開業資金やメニュー開発、いろんな手続きのことを考えると、ひとりではできないと思いました。職業訓練校の実習先でも、飲食店経営の大変さを聞いて諦めかけていたとき、古本屋で「移動販売」に関する本を見つけたんです。

そこには「ベビーカステラ」「クレープ」「たこやき」など、どうやって移動販売を始めるかが詳しく書いてありました。そのひとつに「焼きいも」があったんです。

── たくさんの選択肢があるなか、なぜ焼きいもを選んだのですか?

阿佐美やさん:「開業手続きが簡単」「低コスト」の2点が決め手になり、本を買ってから3か月で開業しました。

2021年6月から「食品衛生管理者」の資格が必要になりましたが、当時は必要ありませんでした(現在は取得済み)。それに焼きいもだと、保健所への「営業許可」が必要なく「営業届出」をするだけで始められたんです。焼きいもは「加熱」するだけで「調理」にはあたらないからです。

焼きいもを売るリアカーといも、それに加熱器具さえあればすぐに始められるのが、焼きいもの移動販売のメリットでした。リアカーは100万円ほどで購入できますから、クレープの移動販売などと比べると、3分の1程度のコストで済みます。

「まずい」という評判を一変させたできごと

── 3か月で開業とは、すごいスピード感ですね。

阿佐美やさん:そうですね。でも、何もわからない状態から始めたので当初はひどい有様でした。

緑の屋根をつけた可愛いリアカーにしたので、目立ったこともあり、初日からお客さんは来てくれました。ただ、いもの仕入れや焼き方にこだわりがなかったので、すごくまずかったんです。いま思うと、甘味はたりないし、筋が多かった。

始めて1か月も経たないある日、声をかけて来た女性のお客さまと話が弾み、「また来たときは家に寄ってね。友だちにも配るから!」とたくさん買ってくれました。後日、またその方の住む地域を回ったので、勇気を出して家の呼び鈴を押したんです。

「あなたの焼きいも、ぜんぜん美味しくなかった。友だちにもがっかりされた。もう来ないでね」と言われてしまいました。

せっかく楽しみにしてくれていたのに悪いことをしてしまった、信頼を失ってしまった、とすごく落ち込みましたね。評判はすぐ広まりますから、その地域では「まずい焼きいも屋」として認識されてしまいました。

── そこからどのように立て直していったのでしょうか。

阿佐美やさん:焼き方を変えたり試行錯誤してみたものの、やっぱりおいしくはなりませんでした。

悩んでいたある日、焼きいもを売る合間にカフェで休憩していたら、店主さんが焼きいもを買ってくれたんです。その方からは「なんでこんなにまずいの?」と厳しいことを言われたのですが、「いもを変えたほうがいい」とおいも農家さんを紹介してもらえたんです。

後日、紹介されたおいも農家さんに行き、おいもを譲ってもらって食べてみると、それが本当においしくて。おいもによってこんなに味が変わるのかと思いました。

甘みと香りがまったく違うんです。その方からおいもを仕入れて売り出すと、「おいしい」と言ってくれる人が急増して、多いときは月100万円を売り上げるようになりました。

── いもの仕入れを変えたことが転機になったのですね。焼きいも屋はひとりでやっていたんですか?

阿佐美やさん:いいえ。両親に手伝ってもらっていました。うちは昔から不仲で会話もほとんどない状態でしたが、焼きいも屋も始めるとき、「人手がたりないし手伝って」と声を掛けたら快諾してくれて。

ふたりとも家で過ごすばかりの生活だったので、仕事がしたかったのかもしれません。母はいもを洗ってくれて、父はお酒を飲みながら火を起こしてくれました。

焼きいもがきっかけで、初めて家族の会話ができた感覚でした。そのうち父のほうから「いもの仕入れはどこまで行くんだ?」「明日は何時に火を起こせばいい?」と話しかけてくれるようになりました。

いまは父も母も亡くなってしまいましたが、焼きいも屋がきっかけで家族と良い時間を過ごせて、本当に良かったと思っています。

リンク先はCHANTO WEBというサイトの記事になります。
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