視界を遮るほどの雪が降る中、船木和喜選手(48)がジャンプ台を飛び出す。美しい飛行曲線を描いて着地すると、大歓声とともに無数の日の丸が揺れた。
1998年2月17日、長野五輪のスキージャンプ団体。「日の丸飛行隊」が初めて金メダルに輝いた。選手たちが抱き合い、折り重なるように倒れ込む。
両耳が聞こえない高橋竜二さん(49)=当時23歳=は優勝を確信し、胸をなで下ろした。「まさか自分たちがメダルの行方を左右するとは……」
その1時間ほど前、同じジャンプ台に立っていた。選手としてではない。競技の安全性を確認する25人の「テストジャンパー」の一員だった。飛んだ距離は、この時点の全選手で2番目に相当する131メートル。記録に残らないその大ジャンプは、日本が世界の頂点に立つ道を切り開いた。(社会部 大井雅之)
横殴りの雪、「天気が日本の敵になるかも」
その日は朝から横殴りの雪が降っていた。長野五輪のテストジャンパーだった高橋竜二さん(49)は、悪い予感がした。「天気が日本の敵になるかもしれない」
1998年2月17日、日本の金メダル獲得が期待されるスキージャンプ団体が予定されていた。
午前10時、競技は30分遅れで始まった。岡部孝信さん(53)と斎藤浩哉さん(53)が1本目を飛び、首位に立つ。3人目の原田雅彦さん(55)の直前、視界がきかないほど雪が激しくなった。
スタート地点の近くで見ていると、助走路に積もった雪が加速を阻み、踏み切りもいつもより低い。「ああっ、ダメだ」。多くの選手が100メートル前後を飛ぶ中、原田さんは79メートル50の大失速。船木和喜さん(48)も記録を伸ばせず、日本は4位で折り返した。
競技中断「君たち全員が飛べなければ2本目はない」
2本で争う競技は雪がやまず、中断された。その時だった。25人のテストジャンパーが控室に集められた。
「君たち全員が安全に飛べなければ、2本目はない」。中止になれば、1本目で順位が確定する。日本はメダルにすら届かない。
4年前のリレハンメル五輪で、あと一歩で初優勝を逃した日本にとって、金メダルは悲願だった。
テストジャンパーは、競技が安全に行えるかを確認するのが役割。勝敗を考えて飛ぶことはない。でも、この時は違った。誰もが同じ気持ちでスタート地点に向かっていた。
「日本が逆転するため、2本目につなげられるのは我々しかいない。飛べることを証明するんだ」
アルペン諦めジャンプへ「鳥になったようで気持ちよかった」
札幌市に3人きょうだいの末っ子として生まれた。言葉を覚えず、両親が呼びかけても反応がない。生まれつきの難聴だとわかったのは4歳の時だった。
滑る速さを競うアルペンスキーを始めたが、スタートの音が聞こえない。振り下ろす旗が合図になるジャンプならできる。「耳が聞こえる子どもと一緒に成長していってほしい」。父に勧められ、小学3年の時に地元の少年団に入った。
聴覚に障害があると、平衡感覚が健聴者より劣ることが多いとされる。コーチの石高博敏さん(87)は、スケートボードを使った練習を考案。ジャンプ台を滑走する姿勢で乗り、坂道に置いたコーンを縫ってスラロームのように滑り降りた。
ジャンプ台に上がる度、怖くて足がすくんだ。やめようとは思わなかった。「空中を飛んでいると一瞬、鳥になったようで気持ちよかった。空の上では障害は関係なかったし、飛ぶことで周囲から認められるのもうれしかった」
札幌 聾ろう 学校時代、教師の唇の動きで言葉を覚え、9歳になる頃にはコミュニケーションに支障がないほどになった。石高さんは「観察力がすごく優れていた。競技でも船木や斎藤の動きを見ただけで再現できた。障害があっても、人に負けたくないという思いもあったんだろう」と語る。
岡部さん破り国際大会優勝したが…代表選手になれず
冬の全国高校総体に3年連続で出場し、「五輪に出る」という夢を描くようになる。手に職をつけようと歯科技工士の資格を取り、札幌市の歯科医院に就職。午前中にジャンプ台に向かい、午後から出勤して入れ歯や銀歯を作った。帰宅は毎日、深夜だった。
実業団と違って、トレーニングに充てられる時間は少ない。スポンサーもいない。スキー板や靴、ジャンプスーツにかかる年間40万円は自費で賄った。
「障害者でもできるところを見せるんだ」。そんな思いでジャンプに向き合った日々は、報われる。
98年1月、札幌市の大倉山ジャンプ競技場で開催された「STVカップ」。長野五輪代表の選考も兼ねた国際大会で、2本とも最長距離を飛び、社会人になって初の優勝を飾った。
だが、与えられた役割はテストジャンパー。世界で転戦する選手たちに比べると実績で劣り、代表選手にはなれなかった。
この大会で2位だった岡部さんは「竜二に実力で負けた。ジャンプ人生であれほど悔しかった試合はない。『五輪で頑張ってください』と言われ、その言葉が励みになった」と明かす。
高橋さんはこの頃、空中に飛び出すと、いつまでたっても落ちない、かつてない感覚を味わっていた。「今なら世界で戦えるかもしれない」。そんな自信が芽生えつつあった時に迎えたのが、長野五輪だった。
正直に言うと、テストジャンパーにはなりたくなかった。「ほかの人のために飛ぶのはうれしくない。選手であれば、誰しも自分が主役になりたいでしょう」
初めて他人のために飛ぶ、「無我夢中」で131m
大雪が舞う中、長野五輪のジャンプ台の階段を上り始めた。その横にある助走路から、仲間のテストジャンパーが次々と飛び出し、選手たちが滑りやすくなるよう雪をかきだしている。転ぶ者はいない。
安全を証明するため、転倒は絶対に避けなければならない。だが、再開を確実にするには、それだけでは足りない。遠くまで飛び、審判団に「やれる」と印象づける必要があった。
「何とか2本目につなげたい」。初めて他人のために飛ぼうと思った。自分の出番がきた。スタート台に座ると、絶好の向かい風を体に感じる。
ゆっくりと腰を上げ、滑り始めた。いつものように風の音は聞こえない。踏み切った後の記憶は途切れている。気づけば、着地していた。興奮して観客とハイタッチした。
自分がどこまで飛んだのかわからなかったのは、後にも先にもこの時だけ。131メートルは試合で記録したことのない距離だった。「無我夢中だった。とにかく無事に終えてホッとした」
競技再開のアナウンスが流れる。詰めかけた3万5000人の観客が沸いた。
テストジャンパーがつないだバトンを受け取った選手は、奮い立つ。岡部さんがジャンプ台記録を更新する137メートルで首位を奪い返すと、斎藤さんも124メートルを飛んだ。ハイライトは原田さんの跳躍だった。
誰もが祈るように見つめる中、137メートルの特大アーチを描く。1本目、そして4年前の五輪で優勝を逃した失敗ジャンプの悪夢を振り払った。「俺じゃない。みんななんだ」。むせび泣きながら語る姿は、多くの人の記憶に刻まれた。
選手から「ありがとう」、とけていったわだかまり
高橋さんは仲間が喜ぶ姿で日本の優勝を知った。選手を出迎えにいき、「おめでとうございます」と言葉をかけた。斎藤さんは、あの大ジャンプを見てくれていた。「ありがとう。君のジャンプも立派だった」
複雑な思いで引き受けたテストジャンパーという役割。その言葉で、わだかまりがとけていった。
斎藤さんは言う。「ライバルの竜二たちが、僕らを飛ばすために大変な役回りを担ってくれた。金メダルはテストジャンパーとの合作。大雪も含め、全てが奇跡的な一日になった」
もたらされたのは日本の五輪史上、夏冬通じて100個目の金メダルだった。
原田さん「ライバルであり仲間、歴史に残る選手の一人」
長野五輪の影響は大きかった。難聴のハンデを乗り越えてテストジャンパーを務めたことが報じられ、大会に出ればサインを求める人の列ができた。
「感動をありがとう」。手紙や寄せ書きが次々と自宅に届く。「挑戦なくして成し遂げられた偉業は、いまだかつて一つもない」。好きな言葉をつづって返信した。
札幌市から「君は間違いなくヒーロー」と書かれた表彰状をもらい、戸惑った。「メダリストでもないし、25人のテストジャンパーの一人にすぎないのに……」
次のソルトレーク五輪を目指したが、その歩みは少しずつ狂い始める。99年に入ると、原因不明の腰と足のしびれに悩まされた。働いていた歯科医院は職員が入れ替わり、居づらくなって退職した。
国際的なルール変更でスキー板の長さが変わり、以前のように飛べなくなっていた。「自分の中で完成していたジャンプが崩れ、心が折れた」。建材会社への就職が決まり、競技から退くことにした。
2000年3月の引退試合。スタート位置からは、札幌市内の夜景が見えた。「最後だと思うと、寂しくなった」。舞台は、初優勝を決めた大倉山ジャンプ競技場だった。ラストジャンプを終えると、選手たちの手で宙を舞った。
その輪の中には原田さんもいた。「高橋君はライバルであり、一緒に酒を飲んだ仲間。日本でほかに難聴のジャンパーを知らない。本人しかわからない苦労もあったと思う。歴史に残る選手の一人」とたたえる。
職場をトヨタ自動車北海道に移した05年、かつての活躍を知る同僚に誘われ、社内に同好会を作って競技に復帰した。「長野五輪の時の感覚に戻れるかもしれない」。かすかな期待を胸に、40歳まで飛び続けた。
今は工場で働き、フォークリフトで部品の原料を運ぶ。スキーから離れ、妻や犬と過ごす毎日。夢だった五輪には出られなかった。輝いたのは一瞬だけだったかもしれない。でも、後悔はない。
「障害は損ではないし、特別扱いしてほしくない」。そんな思いをジャンプを通じて世の中に示すことができた。たまにスーパーで見知らぬ人に「高橋さんですよね」と呼び止められると、あの日を思い出す。「人の心に何かを残せたのかな」。気恥ずかしいけれど、少し誇らしくもある。
大井雅之記者
おおい・まさゆき 2014年入社。中部支社、岐阜支局を経て東京社会部。長野五輪の時は7歳で、熱狂の記憶は残っていない。今回の取材で初めてジャンプ台を見下ろす場所に立ち、あまりの高さに足がすくんだ。33歳。
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