伊藤 芳浩 (NPO法人インフォメーションギャップバスター)
2025/03/19
記事のポイント
- 花王は、きこえない社員ときこえる社員が協力して「KAKEHASHIプロジェクト」を展開
- きこえないお客様が商品やサービスを利用する際の課題を解決するための活動を行う
- きこえない社員が主体となり、周囲の社員を巻き込みながら成果を生み出す
花王は2020年12月、きこえない・きこえにくい社員(以下、きこえない社員)ときこえる社員が協力する「KAKEHASHI(架け橋)プロジェクト」を立ち上げました。同プロジェクトでは、きこえない当事者視点を活かし、これまでに指差しシートの導入やミュージアムでの手話ガイド、ろう学校での化学教室などを実施してきました。課題に直面した際、どのように解決策を提案してきたか、NPO法人インフォメーションギャップバスターの伊藤芳浩理事長がプロジェクトメンバーに聞きました。
「KAKEHASHI」という名称には、きこえない人ときこえる人、将来的にはすべての人の悩みを共有しながら、協調して未来への架け橋となるように、という思いが込められています。
このプロジェクトの特徴は、きこえない社員たちが主体となって活動を推進し、周囲の社員を巻き込みながら具体的な成果を生み出していることです。トップダウンではなく、社員の自主的な活動として始まり、現在では3つのチームに分かれて活動を展開。商品の問い合わせ方法が電話しかない、店頭での接客コミュニケーションが難しいなど、具体的な課題に対して、それぞれのチームが知恵を出し合いながら解決策を模索しています。
■想いをカタチに 、 3つの架け橋づくり
1. 化粧品カウンターで指差しシートを導入
「お客様と美容部員のコミュニケーションを、もっとスムーズにしたい」
そんな思いから化粧品カウンターで使う指差しシートの開発が始まったと語るのは、KAKEHASHIのメンバーで人財戦略部門・組織企画部で報酬制度の企画検討・提案を担当している松尾佳帆さんです。
松尾さんは現在、きこえにくい当事者としての視点を強みに変え、コミュニケーションの架け橋となるプロジェクトに情熱を注いでいます。

人財戦略部門・組織企画部の松尾佳帆さん
「2024年10月の指差しシート導入に向けて、きこえにくい当事者視点と美容部員経験者の視点、そして多くの社内関係者と密に連携を取りながら指差しシートの開発を進めました。導入までの過程では、実店舗でのトライアルを行い、利用者のアンケートを行うことで、改善をしながらどのような場面でも使いやすい設計を心がけました」(松尾さん)

指差しシートを使用してお客様とコミュニケーションする様子
導入後の反響について、松尾さんは目を輝かせながら話します。
「お客様から『美容部員さんが指差しシートを出してくれたとき、本当に歓迎されていると感じました』という声をいただきました。美容部員からも『お客様に伝えたいことが、スムーズに伝えられるようになりました』という前向きな感想が届いています」(松尾さん)
現在、このシートは花王ビューティブランズカウンセリング株式会社が扱うカウンセリングブランドの全国の百貨店、大型スーパー等の化粧品カウンターでろう・難聴のお客様と美容部員とのコミュニケーションに活用されています(※美容部員が不在の場合もございます)。
「指差しシートは導入して終わりではありません。今後もより多くの人のお役に立てるよう、もっと多くの方々にご利用いただけると嬉しいです」と、松尾さんは今後の展望を語ります。
2. 企業の歴史を学ぶミュージアムの手話ガイド
東京都墨田区にある「花王ミュージアム」は、清浄文化の移り変わりや、同社の事業の歴史、懐かしい花王製品の展示などが楽しめる博物館です。ここには手話で館内を案内する「手話ガイド」がいます。
この手話ガイドの活動メンバーの一人でもある、 KAKEHASHI事務局で、PR戦略部門 生活者コミュニケーションセンターの水内祥知代さんは、きこえない当事者として、ミュージアムガイドの意義についてこう語ります。

PR戦略部門・生活者コミュニケーションセンター・水内祥知代さん
「花王ミュージアムでは、暮らしに寄与してきた研究開発の歩みも分かりやすく紹介しています。 これらをろう・難聴の方々にも深く理解していただきたいという思いから、手話ガイドを始めました」(水内さん)
「学校の校外行事において、普段、先生が手話通訳されることが多いようですが、我々と直接手話でコミュニケーションを取ることで、生徒さんたちの反応がより生き生きとしていると先生からお声をいただいています。特に花王石鹸作りのプロセスや昭和コーナーの展示に興味を示してくれます」(同)
今後の展望について、水内さんは「今後は一般のろう・難聴の方々にも気軽に見学していただけるよう関連部門と連携、活動を継続し、より多くの方に花王の歴史や研究開発の魅力を伝えていきたいですね 」と語ります。
3. ろう学校で化学教室、研究者のロールモデルを身近に
KAKEHASHIプロジェクトでは、ろう学校での化学教室も実施しています。水内さんはこの活動についても熱心に語ります。
「子どもたちに化学の面白さを伝えたいんです。花王には多くの研究者がいて、その中には、きこえない社員もいますので、彼らと協力して化学教室を開催しています。研究職として働く社員の姿を子どもたちに見てもらうことで、将来の可能性を感じてほしいと思っています」(同)

ろう学校での化学教室の様子
「当事者が手話で化学を教えることは、子どもたちにとって新しいロールモデルとの出会いになります。子どもたちが学校の先生以外の手話のできる大人と接する機会は少ないですから。特に研究という分野でのロールモデルを提示できることは、とても意義があると考えています」と水内さんは説明します。
教材は既存のものを参考にしたり、あるいは一から作成したりすることもありますが、いずれも当事者視点を大事にし、また、子どもたちの視点で内容を見直し、手話では表現が難しい専門用語をどう伝えるか、試行錯誤を重ねているといいます。
■特別な活動から「当たり前」に
KAKEHASHI事務局で、人財戦略部門 DE&I推進部では多様な社員一人ひとりが活躍できる環境整備と風土醸成に取り組んでいる鈴木康仁さんは、きこえない当事者としての視点からプロジェクトの運営面について熱心に語ります。
「社員には、『お客様にもいろいろな人がいる』ということを知ってもらい、お客様の困りごとに真摯に耳を傾けてほしい。それが次の商品やサービスの向上につながると考えています」(鈴木さん)

人財戦略部門・DE&I推進部の鈴木康仁さん
また、活動を通じて社内の意識も少しずつ変化してきているといいます。
「初めはKAKEHASHIが『当事者による特別な活動』と見られることもありましたが、取り組みを地道に続けることで、徐々に理解者が増えてきました。特に、実際の成果が形になってくることで、各部署からの協力も得やすくなっています」(同)
「私たちの活動は、単なる社会貢献ではありません。当事者だからこそ気づける課題があり、解決できる方法があります。その『当事者だからこそ』の視点を、企業活動の中で活かし、会社に貢献していきたいのです」と鈴木さんは力強く語ります。
■「互いに気づき、共に成長する 」
KAKEHASHIの活動には、きこえない社員だけでなくきこえる社員も参加しています。活動を共にする中で双方に、これまでになかった気づきが生まれ、価値創造をもたらしています。
KAKEHASHI事務局で、感覚科学研究所に所属し、香料の分析業務に取り組む飯島香奈子さんは、きこえない研究者としての体験を共有します。
「普段は1人で分析をすることが多いのですが、KAKEHASHIのおかげで仕事の幅や視野が広がり、多くの人との繋がりができました」と飯島さんは活動の意義を語ります。

感覚科学研究所の飯島香奈子さん
「通常の報告会では周りに合わせて声で発表しています。KAKEHASHIで報告会を開催したときに、社内で初めて声を出さずに手話で発表しました。その際、上司から『生き生きとした表情を初めて見た』と言われました。他のメンバーにも同様な話がありました。きこえない社員たちが自分らしく出せる場所があることの大切さを実感しました」
一方、きこえる立場で活動に参加する山口紀子さん(研究開発部門 研究戦略・企画部 未来ソーシャル研究担当部長)は、KAKEHASHIプロジェクトでの経験を通じた気づきについて語ります。

研究開発部門・研究戦略・企画部・未来ソーシャル研究担当部長の山口紀子さん
「私は当初、きこえない方々とのコミュニケーションに戸惑いを感じていました。しかし、KAKEHASHIプロジェクトで一緒に活動する中で、皆さんの意欲的な姿勢や、やりたいことに向かって様々な工夫を重ねる姿勢に、むしろ私の方が多くのことを学ばせていただきました。人と人を繋ぎ、新しい価値を生み出していく過程は、私にとって大きな気づきの連続でした」
この経験は山口さんの本業にも変化をもたらしているといいます。
「きこえない人の特徴をリアルに実感し、それが日々の業務での視野の広がりにつながっています。お客様に提供する情報、商品やサービスを考える際にも、どんな方にもわかりやすいもの仕上げていく、自分で判断できないときは当事者に聞いてみることにより多角的な視点で検討できるようになりました」
■経験を活かして新しい価値を生み出す
「いろいろな方に対応できることが花王の当たり前であるべき。それができていない部分が課題です」と水内さんは指摘します。
現在は口コミで広がっている活動を、より組織的に展開していく計画だといいます。「各部署との連携を強化し、より多くの製品・サービスでの展開を目指すとともに、新入社員など若手の参加も促進していきたいと考えています」(水内さん)
「きこえないという特性を活かした活動ができるのは、花王グループの強みです。私たちがイニシアチブを取りながら、まだまだできることはたくさんあると思っています」と水内さんは力強く語ります。
社員一人ひとりの「やりたい」という思いから始まったKAKEHASHIプロジェクト。きこえない社員たちが主体となって推進するこの活動は、より多くの人々の架け橋となることを目指して、着実に歩みを進めています。

KAKEHASHIプロジェクトの皆さんでKAKEHASHIの手話ポーズ
今回の取材を通じて印象的だったのは、インタビューに応じてくださった皆さんの表情の輝きだ。自分たちの経験を活かして新しい価値を生み出していこうとする強い意志と、それを実現できる場所があることの喜びが、言葉以上に伝わってきた。
多くの企業でダイバーシティ&インクルージョンが謳われる中、KAKEHASHIプロジェクトが示しているのは、当事者が主体となって変革を起こしていける可能性だ。
「きこえない特性を活かした活動」という言葉が何度も聞かれたが、それは単なるスローガンではない。指差しシートやミュージアムガイド、化学教室など、具体的な形となった取り組みの数々は、その言葉の確かな証となっている。
メンバーたちの生き生きとした姿は、まさに当事者リプレゼンテーションそのものだった。自らの経験を強みに変え、新しい価値を創造していく。「できない」ではなく「どうすればできるか」を考え、実践する。この精神は、企業という枠を超えて、私たちの社会に新しい示唆を与えてくれているのではないだろうか。
伊藤 芳浩 (NPO法人インフォメーションギャップバスター)
特定非営利活動法人インフォメーションギャップバスター理事長。コミュニケーション・情報バリアフリー分野のエバンジェリストとして活躍中。聞こえる人と聞こえにくい人・聞こえない人をつなぐ電話リレーサービスの公共インフラ化に尽力。長年にわたる先進的な取り組みを評価され、第6回糸賀一雄記念未来賞を受賞。講演は大学、企業、市民団体など、100件以上の実績あり。著書は『マイノリティ・マーケティング――少数者が社会を変える』(ちくま新書)など。
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